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明日、死ぬかもしれませんから

震災について感じることがあり、文章に残しておこうと思いました。

 

3年前の震災で2人の友人を亡くしました。

宮城県の合同葬儀で見た被災地のがれきの山、異臭、静寂、夜の暗闇は一生忘れないと思います。

でも、それ以上に脳裏に焼き付いたのは足元に広がる小さながれきです。

アンパンマンが印刷されたコップ、モコモコした冬用の靴下、カレンダー、目覚まし時計。知らない誰かの「日常生活」が破片となり、がれきと化して、あたり一面に散乱していました。

それを見た瞬間、僕は怖くなりました。

船が陸地に乗り上げたり、車がひっくり返っていることよりも、がれきと化した生活の破片の生々しさに「死」が僕のすぐそばまで迫ってきているような感覚を覚え、恐怖しました。

被災地から帰ってきてからも恐怖が意識を支配して(明日はここで震災があるんじゃないか?僕の使っている時計や食器ががれきになるんじゃないか?)としばらく怯えていた記憶があります。

 

会社の後輩に岩手県出身の男の子がいます。

津波で実家が被災し、実家の近所で一人暮らしをしていたおばあちゃんを亡くしています。

仕事で取引先と出身地の話になることがあり僕が山形、彼が岩手出身であることを伝えると

地震大丈夫だった?」と聞いてくる人がいます。

彼は「ええ、大丈夫でしたよ」と笑顔で答えます。

仕事の場で「津波で一人暮らしの祖母を亡くしまして」なんて言えるわけないじゃないですか。

でも「地震大丈夫だった?」と聞いた人にもちろん悪意なんかこれっぽっちもありません。

悪意が無いから「すごかったよね津波」「映画みたいだったよね」と言葉が続く時もあります。

 

でも、しょうがないことだと思うんです。

デリカシーとか、気配りとか、そんな話ではなく、震災からもう3年も経過してるんですから。

多くの人にとって震災はもう3年「も」前に発生したことであり、過去の記憶になっています。

自分や身内が被災していない限り、もう震災はとっくに終わったことです。

 

毎年3月11日が近付くとテレビでは「震災はまだ終わっていない」「被災地を忘れないで」といった内容の特番が組まれます。

確かに原発は安全とは言えない状態が続いており、今日現在も何十万人という方が避難したままです。

事実として、震災は終わっていません。

それでも、忘れないことは、やっぱり、難しいです。

この時期になれば思い出したりもしますが「大変だろうけど……」というのが現実ではないでしょうか。

 

僕たちの日常はとんでもないスピードで進んでいて、毎朝決まった時間に起きて、晩まで仕事をして、毎月家賃や光熱費や税金を払ったり、スーパーで買い物したり、友だちと遊んだり、風邪をひいたり、結婚式に呼ばれたり、恋人ができたり別れたり、親のことを気にしたり、ホント忙しくて、もうあっと言う間に季節はコロコロ変わって、明日自分が震災で死ぬなんて思ってもいないじゃないですか。

「僕たちの生活は一つの地震であっけなく終わる」

「いつどこに大地震がきてもおかしくない」

そんなこと頭では理解しているつもりでも、心のどこかでは(自分は大丈夫)って考えるじゃないですか。 

でも、震災のあったあの日、日本中の誰もが「死」を至近距離に感じたんじゃないでしょうか。

 

巨大な地震、続く余震、津波の威力、炎上するコンビナート、原発放射能

連日ニュースで伝えられる死者、行方不明者の数。

がれきの中、家族を探し回る人々。

 

間違いなくあの数日間「死」は身近であり、誰もが「人間は突然死が訪れる」という事実を知ったのではないでしょうか。

 

だから、せめてその経験だけは、あの日の記憶だけは活かしてもいいんじゃないでしょうか。

 

 

1年に1回、この時期だけでも、忙しく動き回る足を止めて「今の自分の生き方」を見つめる時間をほんの少しだけ取ってもいいんじゃないでしょうか。

 

被災していない人も、何もしなかった人も、物資を買い占めた人も。

 

僕らはいつか必ず死にます。

大切な人や家族とも、いつか必ずお別れが来ます。

そしてそれは突然やってきたりします。

この事実を、再認識しましょう。

 

震災でおばあちゃんを亡くした男の子は3月20日で会社を退職し、東京へ行きます。

念願だった資格を取り、転職が決まったそうです。

彼は震災後、人が変わったように勉強し、資格を取り、一所懸命働いてきました。

「実家が全壊して、ばあちゃんが死んで、明日、僕も死ぬかもしれませんから生き方を見直したんです」そんな話を彼から一度だけ聞いたことがあります。

僕は彼が言った「明日、死ぬかもしれませんから」が忘れられません。

 

僕にとって、そして多くの人にとって震災はショッキングな体験でしたが自分の人生を変える出来事ではありません。

でも(明日死んでも悔いの無い人生を送っているだろうか?)

なんて大げさかもしれませんが

(そういえば、本当にやりたいことって何だっけ?)

くらいは立ち止まって考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

めんどうでしょうか。

そのきっかけに震災を使うのはいいんじゃないでしょうか。

不謹慎でしょうか。

年に一度「死」は身近であることを思い出すことで、もしかしたら何かを変えることができるかもしれません。

何か行動できるかもしれません。

被災地のためでなく、自分のために、です。

今よりも、ほんの少しだけ本当にやりたいことをやれたり、会いたい人に会いに行ったりできるんじゃないでしょうか。

 

もしかしたら、それが結果として、回り回って被災地の誰かを元気にするかもしれません。

 

 

 

せっかく震災を経験した世代なんですから。

明日、僕らはがれきの下にいるのかもしれないのですから。