バツがある方がなんだか人生楽しそうだぞ

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ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ています。

ここ数年、リアルタイムでドラマは見ていなかったのですがTVerのおかげで数日遅れではありますが、前クールで『俺の家の話』を見て、今クールは『大豆田とわ子と三人の元夫』をほぼリアルタイムで見ることができています。TVerすごい。内容は非常におもしろく、毎週火曜日を楽しみにしています。『最高の離婚』『カルテット』そして『大豆田とわ子と三人の元夫』は坂元裕二さんの三部作になるのではないかと思っています(まことに勝手な個人の見解です)。

三部作と聞くと、野島伸司さんの『高校教師』『人間・失格』『未成年』を思い出します。年齢がバレますね。隠していませんけど。思春期に桜井幸子さんの透明感に夢中になった、かつてのキッズ、現在のアラフォーのみなさんは共感していただけるのではないでしょうか。そういえば、このあたりの昔のドラマ、サブスクで見れないのはなぜですか。権利の問題ですかね。内容の問題ですかな。

 

話を戻します。 

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大豆田とわ子のとあるシーン

画面に写っている二人、左はスカパラの谷中さん、右は松たか子さん。共にバツ3の独身という設定です。ちなみに谷中さんは僕がおじさんの進化の最終形態にしたいと思っているイケてるおじさんです。

このバツ3独身二人の何気ない会話。

 

谷中さん「でも、毎回恋をして、今度こそうまいくと信じて結婚するんですよね」

松さん「そうなんです。前向きなんです。ただ、何回やり直しても同じ結果なんですよね」

 

この会話、すごいですよね。

結婚に対するハードルの低さよ。

問いたい。「今回こそうまくいくと信じて結婚するんですよね」の背景にあるものを。どんな感情や、どんな確信や、どんな希望があってそう感じているのか。何をどうやったら結婚にそう何度も何度も飛び込めるのか。

結婚というイベントのハードルを自ら高く設定しまくってきた僕のような独身としては、あまりにも別世界の思考回路で驚きました。

僕の周囲にはたくさんの離婚経験者がいます。

みんな、明るく楽しい人生を送っておりまして、結婚も離婚も経験がない僕が言うのもアレですが、相対的に見ると結婚未経験者よりもバツイチの方がはるかに楽しそうな人生を送っています。そして、バツ1よりもバツ2のほうが楽しそうです。きっとバツ2よりバツ3の方が楽しいのではないかと思います。

この要因は何なのでしょうか。

 

「何度も結婚するバツ2、バツ3」

「また結婚したいと願うバツ1」

「もう結婚はしないと決めたバツ1」

「結婚したいバツなし」

「結婚しないと決めたバツなし」

 

全部「独身」なのに、なんだか一番上の「バツ2、バツ3」は軽やかな人生を送っていて、最後の「結婚しないと決めたバツなし独身」が一番気張っているような気がします。解せん。

この差はなんなのでしょうか。

 

「結婚という人生の一大イベントを一大イベントでなくした」ということは大きいと思います。

一度結婚を経験することで「結婚と離婚、まあまあ大変だったけど、楽しかった日々もあるもんな。でも、今考えるとなんだかんだ大したことないな」と、ハードルをガツンと下げ、精神的な余裕を持てるようになるのです。

周囲からの「この人はなんでこの年齢で独身なんだろ」という好奇の目からの解放、親からのプレッシャー(期待)からの解放、バツという独りでいることに対する免罪符を手に入れるなど、色々な要因はあるのですが、結婚のハードルを無力化したという経験値は非常に大きいのではないでしょうか。

 

僕ら独身には結婚に対して夢や希望を抱いている人がいます。

それは間違いではありません。実際、結婚の大半は夢や希望であってほしいと願います。しかし、夢や希望があると強く信じているからこそ、結婚に対してどうしても気負ってしまうし、臆病にもなってしまう。

僕のように38年間、一度も結婚に本腰を入れることができなかったバツなし生粋の独身は結婚を「経済活動」か「エンターテインメント」にするしかないのですが、それでもまだまだハードルは高いままです。既婚者から何度も「リラックスして」「結婚しても何も変わらないよ」と言われても、どうしても肩の力が抜けないのです。

既婚の友人から「ホームラン打とうとしてるよね」と言われたことがあるのですが、まさにその通り。(独身のみなさん、どうやら結婚って内野安打でもいいらしいですよ)

どれだけ周囲の結婚を見て、結婚について考えても「百聞は一見に如かず」なのでしょうね。

 

もちろん、バツのほうがいいよと言っているわけではありません。バツだって独身です。結婚している間も確実に年齢は重ねるわけで、恋愛市場に関して言えばフェアなはずです。

僕個人的には結婚未経験でも人生の楽しさでいったら負けているとは思っていなくて、さらに「40代で美しい嫁とあっさり結婚」という伝家の宝刀の存在も信じているわけです。一度もその宝刀の姿は見ていませんが。

 

ちょっと本筋から話がズレました。

この数年(十数年かもしれません)、働き方や恋愛の形がずいぶんと多様化したと思います。どんどん生きやすくなっている気がします。

逃げるは恥だが役に立つ」で「契約結婚」が広く知れ渡ったように、こういうドラマがヒットして「離婚」とか「独りで生きる」というハードルがもっともっと下がってくれればいいなと思います。みんな違って、みんないいのですから。

 

ありがとうございました。

おしまい

 

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ありがとうございました。

おしまい

独身に問う「今、幸せですか?」

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質問です。

「今、幸せですか?」と問われたらなんと答えますか。

胸を張って「幸せです」と答える人もいれば、「不幸です」と答えてしまう人もいるでしょう。「不幸ではないけど、まあ、でも、幸せなのかな」とかモゴモゴしてしまう人もいると思います。

 

こちらの表をご覧ください。

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ちょっと画像が暗く、さらにブレていてすいません

荒川和久さんの書籍『一人で生きるが当たり前になる社会』より引用させていただいた、独身者と既婚者の年代別の「幸福度」です。

この表を見ると、全ての年代において既婚者の半数以上は男女ともに「今、幸せですか?」という問いに対して「幸せです」と回答していることが分かります。

既婚の20代女性に関しては77%、既婚の30代女性に関しては75%という驚異的な割合が「幸せです」と回答していますね。すごい。その昔、「女の幸せは結婚である」という今では問題視されてしまうような言葉がありましたが、このデータだけ見ると「結婚は幸福を感じる大きなツールである」という証明はできてしまいます。

 

一方、未婚者は既婚者と比較するとよりも各年代20~30%の割合で「幸せです」という回答をする人が減っている。こんなに違うの?!と驚いてしまいます。

 

この原因は単純に「配偶者がいる、共同生活を送っている、(中には)子供がいて成長に一喜一憂している。親も安心して喜んでいる」という「幸せという言葉に寄り添いやすいアイコニックなもの」があるのは大きいですよね。

既婚者の友人と話をしていると、みんな大変そうだけど、なんだかんだ幸せそうです。夫や妻や父や母という今までとは違った責任ある役割を果たすわけですからね。夫や妻や子供と暮らす日々は一人で生活するよりも喜びを分かち合う機会が多いのはまちがいありません。

そして、多くの独身はそのことを知っている。

独身の方が幸福度が低いのは「結婚したら今よりも幸せな日々になる可能性があるに違いない」という期待も出ていると思います。

バツイチ勢もそうですよね。

結婚なんか二度とごめんだぜという人もいれば、離婚しちゃったけど結婚生活は楽しかったからまたしたいという人も多い。だから「今、幸せですか」に声を大にして「はい」が言えない人がいるはず。

 

つまり、独身のほうが幸福度が低いのはいたって健全なのです。何の問題もありません。

これが独身の方が幸福度が高くなってしまったら「結婚には希望が無い」ということを意味してしまうのですから。

僕だって「今、幸せですか」と問われると「不幸ではないですけど、どうですかね。まあ幸せですけど、充分ではないですよね」と答えてしまう。それは、結婚というイベントを通して自身の中に伸びしろの存在を信じているからです。

 

もう一個、興味深いところがあります。

興味深いと言うか、非常に由々しき問題かもしれません。

既婚、未婚、男女に関わらず、全ての年代において、幸福のピークは20代であるということです。

30代、40代と年代が上がるごとに幸福度は下がってしまっているのです。

これはなぜでしょうか。

人生は右肩下がりなのでしょうか。そんなの辛すぎる。

「幸福」の象徴は「若さ」ではないはず。

太ったり、シミができたり、白髪が出たり、かかとに角質がたまることは不幸ではないはずです。

  

今月20日に僕の3冊目の書籍『38歳、男性、独身』が出ます。

そこに「人生は加点方式だったのです」ということを書きました。

20代、30代、40代、50代と、年代が進むにつれ失っていくものは確かにあります。それは、体力や回復力、人によっては毛髪や視力や肌の張りなど。どれもフィジカルなことばかりです。

テクニカルなことやメンタルで言えば、得る物のほうが多いはずなのです。書籍内では加齢と共に得た物をこのような言い回しにしています。

 

自身や他者に対する許容範囲は広がり、愛しさを感じる対象が増え、ちょっとやそっとでは臆さないようにもなり、感情やストレスのコントロールもスムーズにできるようになりました。

さらに「これまでなんだかんだやってきたんだから、これからもきっと大丈夫だ」という根拠なき自信も身につけつつあります。

 

もっとありますよ。書ききれなかった得た物。

コミュニケーション能力は毎年向上していますし、危険察知能力や俯瞰する能力だって上がっています。金銭感覚や物欲や性欲のなどのコントロールだって上手になっています。

フィジカルのパラメーターが下がる以上に、メンタルとテクニカルのパラメーターは上がっているはずなのです。

若い時はフィジカルで勝負していたスポーツ選手が年齢と共にこれまでの経験からの「読み」で勝負するように、僕たちは若さと引き換えに、多くのモノを得ているのです。

ここでも自信を持って言えます。

人生は、間違いなく加点方式なのです。

 

それなのに、年代が上がるごとに幸福度は下がっていく。

手に入れることができなかったモノ、叶えられなかった夢、一緒になれなかった人。あのとき、ああすればもっと。

これらの「たられば」が原因なのでしょうか。

過去は美化しやすいから「あの頃より今不幸だ」と考えてしまうのか。

人生の大枠がだいたい確定してしまったことに絶望しているでしょうか。

それとも、こんなに多くのものを手に入れているはずなのに、それに気付けないのか。

ちょっと自己啓発っぽくなってきました。

いかんいかん。

 

様々なものを得た僕たちですが、一番上手になったなと感じるのは「物事に納得性を持たせること」です。

見上げれば果てしない青天井、見渡せばぞっとするような美しい青い芝生が広がる世界で「自分にはこれがいい。いや、これがいい」と自分の選択に納得性を与えることがすこぶる上手になったのです。

理想と現実の間に、大納得の着地点をスピーディーに発見し、そこにヒラリと軽やかに着地をする。そして、それを「成功」と呼ぶことができる。ちょっとだけ着地点がずれても「想定の範囲内だよ」と言える。

これは諦めでも妥協でもない。

ここはハッキリ否定しておきたい。

冷静と情熱の間で言えばかなり冷静寄りの視線です。

これを「諦め」と言ってしまえば、人生の幸福度はどんどん下がっていってしまうのかなと思います。

大人になった僕たちはいつだって狙った場所に着地成功しているのです。

そんな僕たちの成長にもっとみんな気付いたらいいのに。そうすればきっと「今、幸せですか?」の答えは今とは少し違ってくるのではないでしょうか。

またもや自己啓発みたいになってしまいました。

いかんいかん。

撤収。

 

今回の原稿は入っていませんが、こんな独身の話が詰まった書籍を発売します。

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きっとここまで読んでいただいたあなたと僕は、気が合う。一か月だけでもどうぞ。

ui0723.hatenablog.com

 

最後に、今回のブログで「今、幸せですか?」と書く度にこの方たちが脳内に。

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阿佐ヶ谷姉妹。『玄関を開けたらいる人』

 

ありがとうございました。

おしまい

がんばれサツキ

本格的に悩み相談を受けるようになって約2年半が経過しました。

2年半も経過して気付いたことなのですが、僕に悩みを寄せていただくほとんどの女性に「長女」という共通点がありました。

悩みを受ける際、ある時期から必ず家族構成をヒアリングするようにしているのですが、女性のうち7割が長女だったのです。

 

最近、あまり言わなくなりましたが、僕はすきあらば「この世は賢い女性、物分かりの言い女性、がまん強い女性ほど幸せになりにくいように仕組まれている」と言っていた頃がありまして、これは一冊目の書籍のサブタイトルになった言葉でもあります。この言葉は、長女タイプの女性のことを言っているような気がします。(『長女』ではなくあくまで『長女タイプ』です。詳細は後術)

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日本史に残る長女・サツキ

 

甘えたくても甘えられないのが長女タイプの女性。

なぜなら甘えてもいい環境が少なかったから、どこまで甘えていいのか?その加減や、甘える術を知らない。

自ら選択した立場ではないのに「お姉ちゃんなんだから」という抗えない理由を一番近い存在の親から与えられ、様々な場面でがまんを強いられるばかりか、いつだって弟や妹のためのパイオニアの役割を課されてきた。パイロットフィッシュの役目だってやった。

期待に応えようと人知れず重ねてきた自己犠牲。

いざ甘えてもいい環境に身を置けたとしても

「自分、大丈夫です。平気っす。余裕っす。へっちゃらですから。あざした。では」

と辞退してしまう。

なぜなら、甘えられる側は負担を感じているに違いないと信じているから。

人様にストレスを与えるくらいなら、自分が我慢する方がずっと気が楽なんですよね。

そうやっていろんなことを我慢していると、小さなストレスは地層のように積み重なる。

しかし、無限には堆積しない。いつか限界は訪れ、家族や恋人からのささいな一言をきかけに噴火してしまう。

中には声を荒げ怒ったり、涙を流す人もいる。

でもそうすると

「え…?そんなことで怒るなよ」

「急になんだよww情緒不安定かwww」

「怖いよ。メンヘラかよ」

とか言われてしまう。

それが怖くて、人間関係において大切なものを静かに諦めてしまう人もいる。

それが長女の宿命。

 

僕はいつも思うのですが、上手に甘えられずにフガフガしたり歯を食いしばっている人ってめちゃくちゃかわいいんですよね。あれこれと甘えてくる人よりも人間味があるじゃないですか。そんなのめちゃくちゃかわいいじゃないですか。

でも、そういった強さやかわいさは伝わりにくい。

特に男性には伝わりにくい。多くの男性は鈍感で、察することが苦手な生物なので、分かりやすく甘えてくる女性ばかりかわいがってしまう。そして、男性は女性からの要求に応え、喜んでもらうことに生きがいを感じる生物。嗚呼、なんて不都合な真実

 

もちろん本物の長女はもちろん、末っ子でも兄や姉がフラフラしていて、兄や姉が果たせなかった責任を押し付けられる長女タイプの末っ子だっている。見た目は明るくて天真爛漫に見えるキャラでも、大事なところで言いたいことを我慢してしまう人です。

一人っ子は大事に育てられるので甘え上手に見られがちですが、みんなそうかと言われればそうじゃない。中には親からの期待を一身に背負う厳しい環境下で育ち、甘え下手になった長女タイプの一人っ子もたくさんいます。

男性も無関係ではありません。僕も長女気質なところがあります。年子の兄がいるのですが、自由奔放というか、少し変わり者で、子供の頃に親と買い物に行けば真っ先に迷子になるのは兄でした。学校での兄も変わり者で、僕は「お前、あいつの弟か」と兄の同級生に絡まれることがあったので、「俺は兄貴とは違う」と気丈に振る舞う必要がありました。だから長女の気持ちが少しだけ分かるのです。

 

長女たちから寄せらる悩みのほとんどは「甘えたい、甘やかされたい。でも、どうしたらいいか分からない」という言葉に言い換えることができます。

そんな悩みから考えると、多くの長女にとっての理想のタイプは「甘えさせてくれる器がでかいしっかり者の男性」ということになります。

でも、需要と共有はいつも食い違う。

多くの長女は「だらしない年上」か「わがままな末っ子」「甘え上手な一人っ子」が寄ってきてしまう。

「この人なら!ようやく見つけた包容力のある年上男性!」と思って付き合うも、相手は既婚者であることもしばしば。映画『海街diary』でもしっかり者の長女は不倫していましたよね。たとえ相手が既婚者であっても、上手に甘えさせてくれる存在であればいないよりははるかにましなのかもしれません。

 

他人に迷惑や負荷はかけたくないと、いつだって一人ぼっちで考えて、悩み、決断をして、一人で歩き、これぽっちも大丈夫じゃないくせに、笑って大丈夫だと言い張る長女。

どうやったら甘えられるのでしょうか。

 

「甘えられ、それに応えるのは男性の生きがい。サービスだと思って甘えてください」

こんなアドバイスもずいぶんしてきましたが、わかっちゃいるけどそれができないのが長女メンタル。

 

僕の周囲の甘え上手を観察したり聞き取りしたりして考えたのですが、長女にリハビリとしておすすめしているのは「自分の感情をそのまま口にする」ということです。

 

例えば空腹時に言う「お腹空いた」です。

シンプルすぎでビックリしますよね。

でも、多くの長女タイプの人は自分の感情を言葉にすることがあまりにも苦手で、やっているつもりで全然できていないのです。もちろん、相手に気を使って言えない人も大勢いる。

 

お腹が空いたとき、一緒にいる人に

「お腹空いたから一蘭のラーメンが食べたい」

これだと『要求』っぽくなりますよね。長女はラーメン食べたいが言えない。

でも「お腹空いた」くらいは言えるのではないでしょうか。

 

本当は「お腹空いたからご飯に行こう」くらい言ってほしいのですが、言えない人は「お腹空いた」だけでも自分にOKを出しましょう。リハビリですから。

これは、甘えでもなんでもありません。

眠かったら「眠い」

疲れたら「ちょっと疲れた」

トイレに行きたかったら「トイレ行きたい」

もう形容詞ですね。

青い空を見て「空が青い」くらい形容詞です。

 

思ったこと、感じたことを何のフィルターも通さずにそのまま口にする。できるだけ短い言葉で。
どうですか。

これでも「お腹空いたって言ったらご飯を要求しているのと一緒だよ!そんなの言えないよ!何食べたい?って聞かれるのも苦手なんだよ!」と言う長女もいるでしょう。実際、います。

それなら「うれしい」とか「たのしい」なら言える気がしませんか。

多くの長女は、お礼のために嬉しさや楽しさの感情を添えます。

「今日はたのしかったです。ありがとうございました」という具合です。

添え物としての「うれしい、たのしい」ではなく、単純に、その場の嬉しさや楽しさを「うれしい、たのしい」と声に出せるようになってほしいと思います。


「おなかすいた」とか「お腹が痛い」とか「会いたい」とか「さみしい」は前後の言葉やシチュエーションや捉え方によっては要求になっちゃうかもしれませんけど、「うれしい」「たのしい」は言えるんじゃないですかね。心に小さいドリカム、宿せませんかね。

 

ここまで読んで末っ子メンタルの人たちは「長女、どんだけ不器用なんだよ」と感じている人もいると思います。でも、これが現実なのです。あまり知られることない長女の内側なのです。

 

嬉しいとか、楽しいとかの表現のプロは犬だと思います。

犬の尻尾って、自分で意識して動かしてないんですよね。感情が出ちゃう。動いちゃう。そういうことなんだと思います。

犬は言葉を持たないから、尻尾で感情表現を行う。

僕たちは尻尾を持たないから、言葉で感情表現を行う。

なんだかすごくいいことを言ってしまった気がします。

 

長女、心に小さな犬を。あとドリカムも。

長女、がんばりましょう。

がんばり続ければ、必ず自然に感情を何のフィルターを通さずに言葉にできるようになるはずです。

がんばれるはずです。

なぜなら、我々長女はみんな努力は得意だから。

がんばることに対しては十分すぎる耐性があるから。

 

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がんばれ長女。ベイビー、泣いてもいいんだ。

 ありがとうございました

おしまい

 

 

【お知らせ】

祝!!3冊目の書籍が発売されます

まえがきを下記で無料公開しています 

ui0723.hatenablog.com

 

非公開ブログ200本以上のオンラインサロンあります

今回のブログもサロン限定ブログの「がんばれ長女」シリーズの一部を抜粋し、加筆修正しました。

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一か月だけでもどうぞ。

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