他人になりつつある親、僕の中のカウントダウン

 

僕は山形という東北の田舎で生まれました。

四方を山に囲われ、1年のうち3分の1は雪に埋もれ、短い夏には蛍が飛ぶような田舎です。

 

18歳で東京に上京し、23歳くらいで名古屋に移り住んで10年が経過しました。

親元から離れて早15年くらいです。

 

この15年の間に両親と顔を合わせた回数は約20回です。

名古屋に住んでいると、どうしても実家までの距離が遠くて、帰省がおっくうに感じたりすることもあります。

プライベートな予定や仕事も忙しく、1年に1回の帰省がやっと、というのが現状です。

 

でも、このペースだと、日本人の平均寿命から考えてみたら、僕の両親が僕の顔を見るのはこの先の人生であと20回くらいです。

 

これは、毎日親の顔を見ている人からしたらたった20日間の回数です。(当然ですね)

この真実はこの先、変えることはできません。

 

もっと帰省する回数を増やせばいいじゃないか、と思う人もいると思います。

その通りです。

でも、仕事やプライベートな予定を差し置いて、全ての大型連休を帰省に使うことは、ちょっと難しいです。そういう環境で僕は暮らしています。

 

もう一つ、目を背けてはいけない真実があります。

それは、僕はもう二度と実家では暮らせない、という真実です。

これは、心理的なものです。

 

僕の中で両親は「遠くに住んでいて、1年に1回か2回会って、4日くらい一緒に過ごす」という存在になっていて、それを今から「一緒に住んで毎日顔を合わせる」という状況には戻せないのです。

 

何年か前の帰省の際に、実家がずいぶんと居心地悪く感じることがありました。

早く独り暮らしする自分の部屋に戻りたいと思ったりもしました。

僕の考え方や、価値観が変わってしまったからなんだと思います。

 

田舎で山菜や雪と暮らす両親、兄弟。

都会のマンションで暮らす自分。

 

親に与えられた生活のリズムや、価値観は、自分の生活によって確実に塗り替えられているのです。

 

Twitterのタイムランや周囲の友人の様子を見ていても、僕と同じようなことを感じている人は少なくないように感じます。

 

もちろん、親は親であり、唯一無二の存在です。

僕が殺人事件を起こして、刑務所から出所しても、親だけはご飯を食わせてくれると信じています。

 

だからこそ、何かを変えなくちゃと思います。

自分の価値観が変わったのなら、変わったなりに何かを始めなきゃ、と。

僕の中で他人になりつつある愛すべき親、会える回数のカウントダウンを気にしながら。

 

混雑する新幹線ホームでインタビューを受ける親子。

そんな風景をテレビで見ながら、きっと孫って、そんな親子をつなぐための重要な役割を持っているんだ、と今更感じたりしました。

 

とりあえず、普段何も親にしていない僕は、孫の顔を見せてあげれるのはまだ先なので、親にお年玉を渡すことから始めようかなと思います。

 

ありがとうございました。

 

おしまい

 

 

 

※1年間沢山の方にブログを読んでいただきました。叱咤激励のご連絡も多数いただきました。また来年もたまに更新するのでお時間あるときにお付き合いください。

ありがとうございました。

みなさま、良いお年を。