あなたは大丈夫だよ

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僕は転職に大失敗した。


転職した先がいわゆるブラック企業と言われる会社だったのだ。

社員数は20人の中小企業で、超が付くほど社長のワンマン経営。「絶対王政」や「独裁政権」という言葉がぴったりの会社。


やたら大声を出さなければいけない朝礼や終礼、明確な評価制度はなく、給料が上がるも下がるもすべては王様の気分次第。そんな王様は気分屋で朝令暮改。でもここまでは中小企業では珍しいことではない。合うか、合わないか。それだけ。


僕の入った会社は労働環境が過酷なものだった。

サボらずにやっていたつもりだったけど、やれどもやれども仕事は深夜まで終わらず、終電に乗れれば御の字だった。
徐々に平日と週末の境界線が曖昧になり、気付けば完全に1日休みなのは月に2日ほどになっていた。

仕事中に社長に呼び出されればやけに広い社長室で1~2時間説教をされ、そのまま社長の自慢話や昔話を聞かされることなんか日常茶飯事。


一番堪えたのは数値目標が未達成だったときに行われる社員全員の前での「決意表明」という儀式だ。

まずは全員に目標未達のことを謝罪し、来月は絶対に達成してみせる、やり切ってみせます、自分は脳なしの役立たずで、みなさんの足を引っ張ってしまい申し訳ありません、バカなりにがんばるので来月も一緒に働かせてください、ということを自分の言葉で発表する。そして、その言葉を聞いている全員が「本気さ」を感じない限り終わらない。あれは精神的にずいぶん追い詰められた。

そんな日々は人間から冷静な判断力を奪い、思考を止め、視界を狭める。決意表明が嫌で自腹で数値目標を達成したことは一度や二度じゃないし、いつしか「自分の成績が良くないのは自分の能力が足りないからだ。自腹は当然の報いだ」と思い込むようになっていた。


肌は荒れ、身だしなみは最低限になり、部屋は散らかり、朝起きれば吐き気がして、不眠症にもなった。

毎朝なんとか玄関を出て、うつむきながら会社に行き、働き、役立たずと叱られ、働き、辞めていく人に腹を立て、働き、愛想笑いをして、働き、すいませんと謝り、少し眠る日々。

 


入社して間もなく1年が経つある日の金曜日。

突然「ノー残業デー」というものが通達された。「全員、今日は何が何でも定時で帰るように。定時と同時に社内の電気を消灯します。明日と明後日の休日出勤も禁止とします」本当に突然の通達だった。
一生無縁だったと思っていたノー残業デー。

労働基準監督署から連絡があったとか、元社員が訴えたらしいですよとか、そんな噂が飛び交ってたけど本当の理由は分からない。とにかく立派な社畜が定時で街に放り出されてしまったのだ。しかも、週末。金曜の夕方。

 

僕は、何をすればいいのか分からなかった。

当然のように何もかも中途半端なまま放り出してきた大量の仕事。期限が月曜日なのに未着手の仕事もあった。土日にやればいいと着手していなかったのだ。いつものことだ。僕の頭はそんな仕事のことでいっぱいで、しばらく会社の周辺をウロウロしていたが、会社に入れない以上どうすることもできず、帰るしかなかった。


いつもより人の多い電車に乗る。

ビルの隙間から見えた空はまだ明るく、たくさんの人と車が動いていた。自宅の最寄り駅から伸びる商店街の店は開いていて、始まったばかりの週末を楽しもうとする人が作り出す活気であふれていた。


僕はこのまま帰るのが急に惜しくなった。

かといって一人で飲みに行くような習慣はなく、居酒屋に入るのは気が引ける。

まるで初めて来たかのように周囲を見回しながら商店街を歩き、目に入ったドトールに入る。気軽に入れて、涼しくて、座れる店ならどこでもよかった。
椅子に座り、目的もなくスマホを触る。僕のSNSは一年近く更新されていない。

 

僕は、元恋人に連絡をした。

4駅隣に住む、去年の夏に別れた恋人。

なぜ彼女に連絡をしたのかは、さっぱり分からない。LINEのトーク履歴を目的もなく上から順に見ていて、目に入った彼女に「なにしてる?」それだけ送った。連絡しようと思っていたわけでもないし、実際、僕は彼女の名前をスマホの中に見るまでは意識の中に彼女の気配すらなかったのだ。


友達の紹介で知り合って4年弱付き合った、1歳年上の彼女。付き合っていた期間、僕たちはいつもケンカをしていて、その原因は毎回ささいなことだった。

将来のこととか、結婚観とか、そんな大事なことではケンカしたことはないのに、皿の洗い方とか、待ち合わせにはいつも必ず5分遅刻するとか、洗濯マークを守るとか守らないとか、本当にどうでもいいことばかりでケンカした。
二人とも大人だったけど、どちらも頑固な性格で、譲らず、折れず、謝れず、それでもなんだかんだ4年弱関係が続いて、最後は大喧嘩して別れた。

最後のケンカの原因ははっきり覚えていなくて、週末のデートの行き先だった気もするし、もしかしたらエアコンの設定温度のことかもしれない。たぶん彼女も覚えていないと思う。


「仕事終わったから帰るところ」
彼女から返信があり、会いたいという旨と場所を伝えると「OK」とだけ返信が来た。

1年ぶりの連絡なのに、なぜ会いたいんだとか、急にどうしたんだとか、何も質問がない。そういえば最後に大喧嘩した原因はLINEの返信が遅いとか、素っ気ないとか、そんなことだったのかもしれない。

 

「一口も飲んでないじゃん」

到着した彼女は僕の前に置かれたアイスコーヒーを見ると挨拶もせずに笑った。

彼女の言う通り、僕のアイスコーヒーは少しも減っていない。氷は全部溶けてしまい、グラスの中にはわずかにグラデーションができている。


1年ぶりの再会だったけど、彼女は何も変わっていなかったように感じた。別れたのも夏だったせいだろうか。それでも、僕も彼女もそれぞれ季節を3つ、一人で過ごしたはずなのに、そんな気がしない。彼女が着ていた半袖のブラウスも、持っている鞄も見たことがある。スマホのカバーも変わっていない。


「それ、飲まないんだったらお店変えようよ。私は金曜の仕事終わりはコーヒーよりもビールのほうがおいしいと思うんだよね」
彼女は僕のコーヒーを取り上げると立ち上がり、自分のコーヒーと一緒に返却口に出してしまった。一口も減っていないままのコーヒーがふたつ並んでいる。
僕たちは店を変え、カウンターに並んでビールを飲んだ。相変わらず彼女は「そんで、急にどうしたの?」とか「何か用事があったの?」とか、そんな質問はしてこない。聞かれても「気がついたら連絡してた」なんて言えないし、納得してもらえそうな理由は思いつかないから助かった。


全然変わってないとか、一年じゃそんなに変わんないかとか、実は転職して仕事が前よりも忙しいとか、最近見た映画の話とか、そういえばまだ部屋にあなたの物が残ってるよとか、そんな話をした。楽しい時間だった。誰かと話をすることも楽しかったし、その相手が気を張らなくても許せる相手ということも居心地がよかった。二人のケンカがいかにくだらないことが原因だったのかで笑い、僕も彼女も冗談を言い合い、気がつけばすっかり遅くなってしまった。


「急に連絡してごめん。でも来てくれてうれしかった。元気そうでよかった」

駅の改札まで一緒に歩く。

 

「金曜の夕方にさ、元カノに今から来いよっていう連絡、本来なら無視されるやつだからね」
こちらこそありがとうとか、私こそ会えてうれしかったとか、彼女はそんな建前は言わない。僕は、本当は、「ありがとう、急に連絡したのに何も言わずに付き合ってくれてありがとう、今日、部屋で時間を持て余すのが怖かったんだ、来てくれて本当に感謝している」って言いたかった。本当は現状を、本音を、全部洗いざらい、彼女にきいてほしかった。


終電までまだ少し時間はあるからか、駅前は人気が少ない。僕にとってはいつもの見慣れた光景だった。

 

「ねえ、会社、辞めれば?」
改札を背にして、僕を真っすぐ見る彼女。

 

「あなたはコーヒーが好きじゃない」

彼女は手を伸ばし、僕の手首を掴む。困ったような、あまり見たことがない顔の彼女。


「コーヒー苦手なあなたが、コーヒーを頼んで、一口も飲まず、背中を丸めて座っている。髪は伸びて、ワイシャツもスーツも皺だらけ。そんなの、ただ事じゃないよ。私にとって一大事だよ。覚えている? 最後のケンカの理由。私のシャツが皺だらけなのを見て、俺たちはいい歳なんだから、お互いもう少し身だしなみには気を使うべきだって注意したの。アイロンが苦手ならクリーニングに出せよ、洗濯とアイロンの手間を考えたら安いもんだとか、放っておいてとか、そんなケンカ。今のあなたは、別人だよ。仕事がしんどいんでしょ。辞めてよ、仕事。このままだと、あなたがダメになっちゃうよ。あなたはそこにいるべきじゃない。もう充分、がんばったよ。分かるよ。私はあなたのそばにいれなかったけど、わかるんだよ。もし、あなたが変わってしまった原因が仕事なら、お願いだから、辞めてください」

 

僕は声にならない声を抑えられず、それは嗚咽となって漏れ、上を向いたくらいじゃ追いつかないくらい、涙は溢れてしまって、そんな状態では彼女の顔なんか見れなくて、彼女はそんな僕の顔を見ないように、掴んだ腕を強く引き寄せ、抱きしめてくれた。


「私は、エアコンの設定温度とか、シャツをクリーニングに出せとか、そんなどうしようもないことであなたとケンカしながら、一緒にいたいよ。仕事なんか辞めても大丈夫。何も心配しなくてもいいよ。だって、私にはあなたがいて、あなたには私がいる。そして私たちは、お互いのことが大好き。だから、大丈夫だよ」


僕はただ、頷く。精一杯。

 

  

 

 

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これはとある30代の男性の実体験のお話を基に、僕が書かせていただいた物語です。

こんなお話が34つも掲載された、新しい書籍を出版させていただくことになりました。

 

 詳細は下記より

www.zentei-happy-end.com

 

 

 

帯はスピードワゴン小沢一敬さんと紗倉まなさんに書いていただきました。

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すてきなコメントに大恐縮しております。

何回も恋愛の辛さを味わって、バッドエンドのエンドロールが流れても、懲りない僕らは何度だって新しい物語を始めてしまう。 

 

出版社にて早期購入者向けに未公開原稿配布キャンペーンやっています

http://www.daiwashobo.co.jp/news/n36039.html 

 

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ありがとうございました

おしまい