毎年セミの声を聞くたびに
(今頃どうしてるかな…)
なんて10年以上昔に付き合っていた恋人を思い出します。
名前をナオちゃんと言います。
これは今から10年以上前の話。
僕が山形から東京に上京して2度目の夏のできごとです。
19歳でした。
何かのバンドのライブで知り合いになったナオちゃんとはすぐに意気投合し付き合うことになりました。
お互い田舎出身で東京に友達が少なかったことも手伝ったのかもしれません。
付き合いはじめて1年くらいだったかと思います。
当時、僕は池袋のカラオケボックスでバイトをしていて、夕方から朝まで働いて昼は寝てるという典型的な夜型の生活を送っていました。
ある日、自宅である高円寺のアパートで寝ていたら、ナオちゃんが部屋に突然やってきました。正確には、暑さで目を覚ましたらナオちゃんが部屋にいました。
夕方、西日でオレンジ色に染まった蒸し暑い部屋で、ナオちゃんは床に正座していました。
「うおっ!びっくりした。どうしたの!?いつ来たの?あれ?って言うかカギ開いてた?起こしてくれれば良かったのに……」
ここまで言って、異変に気付きました。
何かが、おかしいのです。
何と言うか、本能が僕に(おい!気をつけろ!)と訴えてくるのです。
何にどう気をつければいいのか具体的にはわからないのですが、本能が(危険!危険!危険!)と必死にブザーを鳴らします。
「ナオちゃん?」
呼びかけてみますが、返事はありません。
僕はベッドから降りてナオちゃんの元へ歩み寄り、ややうつむき加減に座るナオちゃんんの顔を覗き込みました。
動いていました。
黒目が。
左右に。
ありえないスピードで。
目尻から目頭まで。
まばたきはせず、口は半開き。目が、黒目だけが左右に動いているのです。
黒目の動く振れ幅とスピードは誰が見ても人間の意志では不可能なものです。
直感で感じました。(あぁ、これは非日常。だめなやつ。完全にだめなやつ)と。
「ナオちゃん?」
「ナオちゃんっ?ナオちゃんっ!?ねえ、ナオちゃんっ!!?」
名前を呼ぶこと以外に、僕は何もすることができませんでした。
噴き出る汗。心臓は鼓動を早め、息は切れ、足が震えだします。そのことがさらに脳のパニックを加速させます。
いくら呼んでも返事をしないナオちゃん。
世界中の時間が完全に止まって、僕の心臓とナオちゃんの眼球だけが動いてる世界に来てしまったような錯覚に陥った時、ナオちゃん、言ったんです。
「わらわは……」
非日常がさらに非日常になります。わらわって、何?
人間というのはよくできているもので、ここまで来ると、恐怖が麻痺します。
「あ…ありのまま…今起こったことを話すぜ…」と一瞬のポルナレフ状態から必死に体勢を立て直し思い切って聞いてみました。僕の中に(ナオちゃんがふざけてるだけ)という願望も残っていたんだと思います。
「新しい。わらわって。新しいよナオちゃん。新キャラ?誰の真似?」
しかし、ナオちゃんは僕の質問には答えてくれません。それどころか、ギリギリ聞き取れないボリュームでゴニョゴニョなんか言っています。
何を言っているか分からないのですが、所々聞こえる言葉が「~にたりて」「~しておる」とか20歳そこらの女子が使う言葉ではありません。
当時、ナオちゃん好きだったバンドはハイスタでした。いつも「Stay Gold」や「Kiss Me Again」を聴いていました。もう「わらわ」からは一番遠い世界。その間もずっと眼球は左右に動いていています。
見た目も、何かが違います。そこにいるのはナオちゃんなんですけど、ナオちゃんではない。何が違うかなんて分かんないんですけど、どこかが決定的に違う。ナオちゃんに似ているけど、絶対にナオちゃんでは無い。時折目の動きが止まりこっちを見てる時も、僕を通りこして僕の後ろ側を見ているような目線。
それでも(ナオちゃんはふざけているだけ)という願望に似た希望を捨てきれない僕がいました。
折りたたみ式の白い携帯(ガラケー)をサッと股間に当てて
「ウィスパー」
と言う当時ナオちゃん爆笑確実の超鉄板ギャグをぶちかましたけど、無視です。
「わらわ、わらわ」言ってます。
僕が超すべってる感じになってます。
蒸し暑い夕方の高円寺のアパート。
差し込む西日。流れる汗。股間のガラケー。眼球を左右に振る女。
「ウィスパー」「わらわ」
「ウィスパー」「わらわ」
シュール。
超困った僕は電話で助けを求めました。
何かとかわいがってくれていた当時のバイト先の店長さん。
店長さんはすぐ来てくれました。(すぐ来てくれた理由はドラッグだと思ったとのこと)
無論、店長ドン引きです。まず僕の部屋の玄関にドン引きしていました。カギがめちゃくちゃになっていたのです。ボロアパートだったのでカギなんて元々粗末なものだったんですけど、明らかに外部から破壊されていました。そういえば、ナオちゃんに合鍵なんて預けていません。恐らくですが、ナオちゃんは呼び鈴も鳴らさず、部屋のカギを壊して入ってきたのです。19歳の女の子が、です。後から知ったのですがこの時点でナオちゃんの指は骨折していました。
そして店長、ナオちゃん本人を見てもドン引き。
この状況、とんでもなく非日常的なはずなのに、本当に人間ってやつはよくできていて、慣れるんですね。その環境に。時間の経過と共に「わらわ」にも慣れる。
意思疎通ができる人間が二人いれば何とか正気は保てるようになっているようです。
そしたら店長「病院行こう。これは、病院に行ってみよう」と。
確かに。
もう僕の頭の中ではずいぶん前から「お・は・ら・い」の四文字が幅をきかせていたんですけど、様子がおかしい人を病院に連れて行くのは当然の行為です。言いに行きましょう。何科かわかんないけど。「すいません、先生、この子さっきから言葉使いが古今和歌集なんです」と。
暴れるなおちゃんを力ずくでタクシーに押し込み、新宿の大きな病院に。もう夜でした。数時間に及ぶ検査を終えて、お医者様、言ったんです。
「ビタミン不足ですね」って。
その時の僕らときたら多分、いや絶対にハニワみたいな顔してました。
「ビタミン不足だと思うんですけどね、うん」って。
2回言った。先生、間違いなく自分に言い聞かせてました。
日本の医療は世界と比較してもかなり特殊な構造になっているそうです。人口に対する医師の数は先進国トップクラス。なのに病院の数が多すぎるので、結果、医師は沢山いるのに病院数も多いために常に人手不足という状況らしいです。特に夜間は問題視されいて、夜間病棟には研修医がバイトで診察をしているのがもう当たり前になっています。しかもその多くの研修医が専門外の科の診察まで行うというのです。
でもね、それにしてもね、先生、「ビタミン不足」って。
店長言いました。しぼり出すような声で言いました。
「……ビタミン不足で…こんなんなるんだったら…日本中こんなんですよ」って。
確かに。
僕も独り暮らしで絶対にビタミンは不足していましたが一人称はわらわにも拙者にも吾輩にもなんなかったし、眼球も左右に揺れなかった。
店長「先生、じゃあ質問を変えます。こんな子が外来で来たらこの後はどうするんですか?精神科ですか?」
ここからは大人の話し合い。先生と店長が話し合った結果…
店長「…なんか渋谷の方にいけば…治るらしい…」
僕「…病院ですか?」
店長「…いや…はっきりとは言わなかったけど…言えないんだろうけど…なんかもっと、こう、霊的な感じのところ…多分…」
もうどこでも良かった。おはらいでも精神科でも。疲れてたし、正直、この非現実的な時間を終わらせたかった。病院の先生だって大変だ。「ああ、これは憑依ですね。悪霊かな?」なんて言えるわけないし「現代医療ではよく分かりませんね」なんて言えるわけがない。彼らは何かしらの病名を付ける義務がある。でも、言ってほしかった。「たまに来るよ、こういうの。病気なわけないじゃん」って。早く誰か、もう終わりにしてほしかった。
渋谷方面のとある神社?(ほぼ民家)に行くと「え?そんだけ?終わりすか?」みたいにあっけなく終わった。
でも、効果てきめん。ナオちゃんはナオちゃんに戻っていました。キョトンとしています。
お祓いした人いわく「ヘビだね、こりゃ」とのこと。
「へび?」と首をかしげるナオちゃんを見て、僕と店長も、少し笑った。
意識の戻ったナオちゃんにこれまでの出来事を説明しましたが全く記憶に無いらしく「すごいねテレビみたいだね」なんてケタケタ笑って。
僕は彼女のそんなところが好きでした。
でも僕のもとに一人称が「あたし」のナオちゃんが戻ってきたのは束の間でした。
だってナオちゃん19歳。
今回の件は店長から親御さんへも連絡が入ってました。無論、親御さんは心配です。あまりに心配なんで、ナオちゃんはしばらく新潟の実家に帰省することになりました。当然の判断です。 東京に出て行った娘の一人称が一時的とはいえ「わらわ」になったんです。そのままでいいわけがありません。
でも、大人たちが「しばらく帰る」「落ち着いたらまた東京に戻ってくる」なんて言っても分かっていた。
もう一人暮らしはできないんじゃないかって。
東京には戻ってこないんじゃないかって。
当然の結論。
僕らだけでは決めれない。
19歳だったけど、それぐらいは充分理解できた。僕も、おそらくは、なおちゃんも。
それで、新幹線に乗って実家に帰るナオちゃんを見送りに行ったんです。
忘れもしない。
7月23日。
僕の20歳の誕生日でした。
狂ったようにセミが鳴く日。
東京駅北陸新幹線ホーム。
「たまには会いに行くよ」なんて言ったりして。
たぶん最後のお別れになるのに。
ドアの向こうで照れ笑いするナオちゃん。
響く無機質な発車のメロディ。
「じゃあ元気でね、本当に会いにいくから。なんか、こんなことになって……
閉まるドアに途切れる言葉
その時
確かに、見たんです
新幹線のドアの、窓越しに
夏の日差しを浴びて
本当に、もう狂ってしまったようなセミの声の中で
左右に激しく動くナオちゃんの眼球を